
諦めろという諦観と、それに抗う意識とのせめぎ合いに翻弄される。
すべて亡き者として葬り去れたら、なんてことはないのだから。
物騒なことではなく、脳内の話である。
この諦めきれない心。
脳みそだよ。
なにに期待しているのだか。
いちいち、傷つくんだよ。
厄介だね。
どうでもいいってだけで終わらせられたらいいんだけど。
お前の脳はそうもいかないんだ。
諦めきれないということ
「お前、まだ期待しているな。」
ふと、そんな言葉が胸の中に落ちてきた。
誰かに言われたわけでもなく、どこかで読んだわけでもない。
でもその「お前」とは、他でもない自分自身のことだった。
何に対してか、誰に対してか——
もう分かりきっているはずの現実に対して、
それでもどこかで「何かが変わるんじゃないか」と、
まだ小さく期待している自分がいる。
もういい加減に諦めろ、と何度も思った。
そのほうがきっと楽になれる、とも。
でも、心は簡単には従ってくれない。
諦めろという諦観と、それに抗う意識とのせめぎ合い。
その狭間で、僕たちは思考を巡らせ、感情に呑まれ、
ときに身動きすら取れなくなる。
分かっているのだ。
悩みの根っこにあるのは、期待だということ。
「もう無理だ」と口では言っても、
心のどこかではまだ、ほんのわずかでも希望を手放せていない。
そしてもっとも厄介なのは、
「分かっている」ことが、何ひとつ現実を動かしてくれないという事実だ。
分析も、自己理解も、時には無力だ。
心は言葉で割り切れない。
それでも、期待してしまう。
それでも、信じてしまう。
誰に? 何を? そんなことはもう重要じゃないのかもしれない。
諦められない心は、確かに苦しみを連れてくる。
でも同時に、それはまだ「生きている証」でもある。
今日もまた、そんな自分にうんざりしながら、
それでもどこかで、明日を捨てきれずにいる。
コメント